2010/11/05

【現代語訳】師説(「古文真宝」韓愈)

昔の学問をする者には、必ず先生がいた。
先生とは、人間の正しい在り方を伝え、技能を授け、疑問を解決するための人である。
人は生まれながらにして、それについて知らない。
だれが惑わずにおられるのか。いや、おられない。
迷っていながら、先生について学ぼうとしなければ、その迷いはいつまでも解けない。
私より前に生まれて、真理を聞いて理解することが、もちろん私より先ならば、私はその人につき従って先生とするであろう。
私より後に生まれても、真理を聞いて理解することが、また私よりも先であるならば、私はつき従って先生とするであろう。
私は道を先生とするのである。
そもそも、どうしてその人が先に生まれたか、後で生まれたかを考えるのか。いや、考えない。
こういうわけで、身分の高い低いの区別なく、年齢の高い低いの区別なく、道の存在するところが、先生の存在するところなのである。

ああ、先生について教えを受ける正しい在り方が伝わらなくなってから久しくなった。
人が迷いを無くそうとしても難しい。
昔の聖人は、人よりもはるかに抜きんでていた。
それでもなお、先生につき従って質問をした。
今の人々は、聖人よりはるかに劣っている。
それなのに先生について学ぶことを恥としている。
こういうわけで聖人はますます聖人となり、愚人は、ますます愚人となる。
聖人が聖人である理由、愚人が愚人である理由は、みなここに基づいているのであろう。

自分の子を可愛がり、先生を選んで教育させるが、自分のことになると先生について学ぶことを恥とする。
これは間違いである。
あの子供の先生というものは、子供に書物を与えてその書物の読み方を学ばせるものである。
私の言うところの、人の在り方を教え人の疑問を解決する者ではない。
文章の読み方を知らない者と、疑問を解決していない者、ある者は先生について教えを受け、ある者はそうしない。
小さいことは学んでも、大きなことは忘れているようなものである。
私はその人が賢明だとは思わない。

祈祷師と医者・音楽を演奏する人・各種の職人は、お互いに先生について学ぶことを恥じない。
官に仕える人達は師だとか弟子だとか言っている人に対して、群れ集まって笑う。
理由を問うと、「彼と彼とは年がだいたい同じくらいで、修めた学問も同じようなものだ。」
身分が低ければ、恥ずかしいことだと思い、位が高ければ、へつらっているようなものだと言う。
ああ、先生に師事して学ぶことが復活しないのが分かる。
祈祷師と医者・音楽を演奏する人・各種の職人たちを、知識階級の人たちは蔑んでいる。しかし今、知恵は、彼らに及ぶことができない。なんと不思議なことであるよ。

聖人には決まった先生はいない。
萇弘・師襄・老耼・郯子などの連中は、その賢さは孔子には及ばない。
孔子は「三人が行動すれば、必ずその中に自分の先生がいる。」と言った。
だから、弟子は必ずしも先生に及ばないというわけではない。
先生は必ずしも弟子より優れているというわけでもない。
道を聞くのに後先があり、技芸・技能に専門がある、ただそれだけのことである。

李氏の子の蟠は、十七歳である。
古典を好み、六経の本文と注釈を学んで、それらによく精通している。
この時代の風潮にこだわらず、私について学びたいと言ってきた。
私は彼が古人の師に仕える在り方を実行できることを立派だと褒め、「師説」を作って、彼に贈り物とする。

【書き下し文】師説(「古文真宝」韓愈)

古の学ぶ者は、必ず師有り。
師は道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり。
人は生まれながらにして之を知る者に非ず。
孰か能く惑ひ無からん。
惑ひて師に従はざれば、其の惑ひたるや、終に解けざらん。
吾が前に生まれて、其の道を聞くや、固より吾より先ならば、吾従ひて之を師とせん。
吾が後に生まれて、其の道を聞くや、亦吾より先ならば、吾従ひて之を師とせん。
吾は道を師とするなり。
夫れ庸ぞ其の年の吾より先後生なるを知らんや。
是の故に貴と無く賎と無く、長と無く少と無く、道の存する所は、師の存する所なり。

嗟乎、師道の伝はらざるや、久し。
人の惑ひ無からんと欲するや、難し。
古の聖人は、其の人に出づるや、遠し。
猶ほ且つ師に従ひて問へり。
今の衆人は、其の聖人を去るや、亦遠し。
而るに師に学ぶを 恥づ。
是の故に聖は益々聖にして、愚は益々愚なり。
聖人の聖為る所以、愚人の愚為る所以は、其れ皆此に出づるか。

其の子を愛しては、師を択びて之に教ふるも、其の身に於けるや、則ち師とするを恥づ。
惑へり。
彼の童子の師は、之に書を授けて其の句読を習はしむる者なり。
吾が所謂其の道を伝へ其の惑ひを解く者に非ざるなり。
句読の知らざる、惑ひの解けざる、或るいは師とし、或るいは不せず。
小は学びて大は遺る。
吾未だ其の明なるを見ざるなり。

巫医、楽師・百工の人は、相師とするを恥ぢず。
士大夫の族は、日はく師、日はく弟子と云ふ者には、則ち群聚して之を笑ふ。
之を問へば則ち日はく、「彼と彼とは年相若けり、道相相似たり。」と。
位卑ければ則ち羞づるに足り、官盛んなれば則ち諛ふに近しとす。
嗚呼、師道の復せざること、知るべし。
巫医・楽師・百工の人は、君子之を鄙む。
今其の智は、乃ち反って及ぶ能ばず。
怪しむべきかな。

聖人は常の師無し。
萇弘・師襄・老耼・郯子の徒は、其の賢孔子に及ばず。
孔子日はく、「三人行へば、則ち必ず我が師有り。」と。
故に弟子は必ずしも師に如かずんばあらず。
師は必ずしも弟子より賢ならず。
道を聞くに先後有り、術業に専攻有り、斯くの如きのみ。

李氏の子蟠、年十七。
古文を好み、六芸の経伝、皆之に通習せり。
時に拘はらずして、余に学ばんことを請ふ。
余其の能く古道を行ふを嘉し、師の説を作りて、以て之に貽る。

2010/10/25

【白文】師説(韓愈「古文真宝」)

古之学者、必有師。
師者所以伝道授業解惑也。
人非生而知之者。
孰能無惑。
惑而不従師、其為惑也、終不解矣。
生乎吾前、其聞道也、固先乎吾、吾従而師之。
生乎吾後、其聞道也、亦先乎吾、吾従而師之。
吾師道也。
夫庸知其年之先後生於吾乎。
是故無貴無賎、無長無少、道之所存、師之所存也。

嗟乎、師道之不伝也、久矣。
欲人之無惑也、難矣。
古之聖人、其出人也、遠矣。
猶且従師而問焉。
今之衆人、其去聖人也、亦遠矣。
而恥学於師。
是故聖益聖、愚益愚。
聖人之所以為聖、愚人之所以為愚、其皆出於此乎。

愛其子、択師而教之、於其身也、則恥師焉。
惑矣。
彼童子之師、授之書而習其句読者也。
非吾所謂伝其道解其惑者也。
句読之不知、惑之不解、或師焉、或不焉。
小学而大遺。
吾未見其明也。

巫医・楽師・百工之人、不恥相師。
士大夫之族、曰師、曰弟子云者、則群聚而笑之。
問之則曰、「彼与彼年相若也、道相似也。」
位卑則足羞、官盛則近諛。
嗚呼、師道之不復、可知矣。
巫医・楽師・百工之人、君子鄙之。
今其智、乃反不能及。
可怪也歟。

聖人無常師。
萇弘・師襄・老耼・郯子之徒、其賢不及孔子。
孔子曰、「三人行、則必有我師。」
故弟子不必不如師。
師不必賢於弟子。
聞道有先後、術業有専攻、如斯而已。

李氏子蟠、年十七。
好古文、六芸経伝、皆通習之。
不拘於時、請学於余。
余嘉其能行古道、作師説、以貽之。

2010/10/14

【現代語訳】去来抄(向井去来「此木戸や」)

此木戸や錠のさされて冬の月 其角
(酔っ払い夜更けて城門まで来るとすでに錠が下ろされていて通れない。空を見上げると、澄んだ冬の月が深々と辺りを照らしている。)

「猿蓑」に入れる句を撰んでいたときのこと、(江戸の其角が)この句を(師の芭蕉へ)書き送り、下の句を「冬の月」か「霜の月」にするか、悩んでおりますという旨を、(芭蕉へ)申し上げた。
ところが、初め(の句)は(「此」と「木」の)文字が詰まっていて、「柴戸」と読めた。
芭蕉は、「其角(ほどの者)が『冬』か『霜』かで悩むような(すぐれた)句ではない。」とおっしゃって、「冬の月」として「猿蓑」に入れた。

その後、大津(=滋賀県大津市)からの芭蕉の手紙に、「『柴戸』ではなく、『此木戸』である。
このようなすぐれた作品は一句とはいえ大切であるので、たとえ版木を彫り終えたとしても、急いで改めなさい。」とあった。

凡兆は、「『柴戸』でも『此木戸』でもそれといった優劣はない。」と言う。
(対して)去来は、「この月を柴の戸にあわして見るならば、並の情景である。
(しかし)この月を城門にうつして見ますならば、その情景はしみじみと感慨深くすばらしくて、(何とも)言いようのない。
其角が、『冬』か『霜』かで悩んだのも当然である。」と言った。

***
柴で出来た垣根は質素な隠者の住まいを代表する。その垣根を照らす月。
その情景は風情あるものだが、あまりにもありふれている。
また、「冬の月」は深々と辺りを照らすのに対し、「霜の月」は辺りをきらきらと輝やかせる。
隠者のわび住まいに似つかわしいのはどちらか。無論、冬の月である。

当時は木板印刷であったが、版木を彫り終えてしまったとしても、改めよという芭蕉の言動から、俳諧・芸術への厳しい姿勢を感じられる。

【原文】去来抄(向井去来「此木戸や」)

此木戸や錠のさされて冬の月 其角

「猿蓑」撰のとき、この句を書き送り、下を、冬の月、霜の月、置きわづひ侍るよし、聞こゆ。
しかるに、初めは文字つまりて、柴戸と読めたり。
先師曰はく、「角が、冬・霜にわづらふべき句にもあらず。」とて、冬の月と入集せり。

その後、大津より先師の文に、「柴戸にあらず、此木戸なり。
かかる秀逸は一句も大切なれば、たとへ出板に及ぶとも、急ぎ改むべし。」となり。

凡兆曰はく、「柴戸・此木戸、させる勝劣なし。」
去来曰はく、「この月を柴の戸に寄せて見れば、尋常の気色なり。
これを城門にうつして見侍れば、その風情あはれにものすごく、言ふばかりなし。
角が、冬・霜にわづひけるもことわりなり。」

2010/10/12

【現代語訳】関白の宣旨(「大鏡」太政大臣道長)

女院(藤原詮子-道長の姉)は、入道殿(道長)を特別扱い申し上げなさって、とても(大切に)思い申し上げなさっていたので、帥殿(伊周=定子と兄弟関係)はよそよそしく振舞っておられた。
帝(一条天皇)は、定子を心から寵愛なさるその縁で、帥殿は朝晩天皇のおそばに仕えなさって、(帥殿は)入道殿のことは申すまでもなく、女院をも良からぬように、何かにつけて申し上げなさるのを、女院は自然とお気づきになさったのだろうか、たいそう不本意なことにお思いになったのは、当然のことだなぁ。

入道殿が摂関となって政治をお執りになることを、帝はたいそう渋りなさった。
皇后宮(定子)は、父大臣(道隆)がいらっしゃらず(亡くなられて)、世間への皇后宮の境遇がお変わりになってしまうことを、(帝は)とても気の毒にお思いになって、粟田殿(道兼)にも、すぐに宣旨は下しなさっただろうか、いや下しなさらなかった。(やは:反語)
そうではあるけれど、女院は道理の通りに兄弟の順に関白に任ずることをお考えになり、また、帥殿を良くなく思い申し上げなさったので、(帝は)入道殿が関白になることを、たいそう渋りなさったけれど、
「どうしてこのようにお思いになって、おっしゃるのですか。
入道殿を超えて帥殿が先に内大臣になったことさえ、たいそう気の毒でした。
父大臣が強引にしましたことなので、(帝も)断りなさらなくなってしまったのです。
粟田の大臣にはなさって(=関白の宣旨をお与えになり)、入道殿にはございません(=お与えにならない)としたら、気の毒よりも、あなたのためにたいそう不都合なことで、世間の人もことさらに言うでしょう。」
などと、(女院が)熱心に申し上げなさったので、(帝は)わずらわしくお思いになったのだろうか、その後には女院の所へお渡りにはならなかった。

それで、(女院は)上の御局(=清涼殿にある后妃の部屋)に上りなさって、(帝に)「こちらへ。」とは申し上げなさらず、自分が夜の御殿(清涼殿の天皇の寝所)にお入りなって、泣く泣く(道長を関白にと)申し上げなさる。
その日は、入道殿は上の御局にお控えなさる。
(女院が)たいそう長い時間お出にならないので、(入道殿は)はらはらしなさった頃に、しばらくして、(女院が)戸を押し開けて出なさった。
その御顔は赤く、(涙で)濡れてつやつやと光りなさるものの、お口はこころよく微笑みなさって、「ああ、やっと宣旨が下った。」と申し上げなさった。
些細なことでさえ、現世の縁ではなく、前世の宿縁で決まるということなので、ましてや、これほどのご様子は、女院が、どうこうお考えになることによって決まるはずのものでもないが、(入道殿としては)どうして女院をおろそかに思い申し上げなさるだろうか、いや思い申し上げになさらない。
その中でも、道理を過ぎるほど恩に報い申し上げ、お仕え申し上げなさった。
女院を鳥辺野に葬送するときに(女院の骨を首に)掛けることまでもなさっていたということよ。

【原文】関白の宣旨(「大鏡」太政大臣道長)

女院は、入道殿を取り分き奉らせ給ひて、いみじう思ひ申させ給へりしかば、帥殿はうとうとしくもてなさせ給へりけり。
帝、皇后宮をねんごろに時めかせ給ふゆかりに、師殿は明け暮れ御前に候はせ給ひて、入道殿をばさらにも申さず、女院をもよからず、事に触れて申させ給ふを、おのづから心得やせさせ給ひけむ、いと本意なきことにおぼしめしける、ことわりなりな。

入道殿の世を知らせ給はむことを、帝いみじうしぶらせ給ひけり。
皇后宮、父大臣おはしまさで、世の中をひき変はらせ給はむことを、いと心苦しうおぼしめして、粟田殿にも、とみにや宣旨下させ給ひし。
されど、女院の、道理のままの御ことをおぼしめし、また、帥殿をばよからず思ひ聞こえさせ給うければ、入道殿の御ことを、いみじうしぶらせ給ひけれど、
「いかでかくはおぼしめし、仰せらるるそ。
大臣越えられたることだに、いといとほしく侍りしに、父大臣のあながちにし侍りしことなれば、いなびさせ給はずなりにしにこそ侍れ。
粟田の大臣にはせさせ給ひて、これにしも侍らざらむは、いとほしさよりも、御ためなむ、いと便なく、世の人も言ひなし侍らむ。」
など、いみじう奏させ給ひければ、むつかしうやおぼしめしけむ、後には渡らせ給はざりけり。

されば、上の御局に上らせ給ひて、「こなたへ。」とは申させ給はで、我、夜の御殿に入らせ給ひて、泣く泣く申させ給ふ。
その日は、入道殿は上の御局に候はせ給ふ。
いと久しく出でさせ給はねば、御胸つぶれさせ給ひけるほどに、とばかりありて、戸を押し開けて出でさせ給ひける。
御顔は、赤みぬれつやめかせ給ひながら、御口はこころよく笑ませ給ひて、「あはや、宣旨下りぬ。」とこそ申させ給ひけれ。
いささかのことだに、この世ならず侍るなれば、いはむや、かばかりの御有様は、人の、ともかくもおぼしおかむによらせ給ふべきにもあらねども、いかでかは院をおろかに思ひ申させ給はまし。
その中にも、道理すぎてこそは報じ奉りつかうまつらせ給ひしか。
御骨をさへこそはかけさせ給へりしか。

2010/09/23

【原文】心に残る夕影(「源氏物語-第十三章第六段~第九段-若菜上」紫式部)

いと労ある心ばへども見えて、 数多くなりゆくに、上臈も乱れて、冠の額少しくつろぎたり。
大将の君も、御位のほど思ふこそ例ならぬ乱りがはしさかなとおぼゆれ、見る目は人よりけに若くをかしげにて、桜の直衣のややなえたるに、指貫の裾つ方少しふくみて、気色ばかり引き上げ給へり。
軽々しうも見えず、もの清げなるうちとけ姿に、花の雪のやうに降りかかれば、うち見上げて、しをれたる枝少し押し折りて、御階の中のしなのほどにゐ給ひぬ。
督の君続きて、
「花乱りがはしく散るめりや。桜は避きてこそ。」
などのたまひつつ、宮の御前のかたを後目に見れば、例の、ことにをさまらぬ気配どもして、いろいろこぼれ出でたる御簾のつまづま、透影など、春の手向の幣袋にやとおぼゆ。

御几帳どもしどけなく引きやりつつ、人げ近く世づきてぞ見ゆるに、唐猫のいと小さくをかしげなるを、少し大きなる猫追ひ続きて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人々おびえ騒ぎて、そよそよと身じろきさまよふ気配ども、衣のおとなひ、耳かしかましき心地す。
猫は、まだよく人にもなつかぬにや、綱いと長く付きたりけるを、物に引き掛けまつはれにけるを、逃げむとひこしろふほどに、御簾のそばいとあらはに引き上げられたるを、とみにひき直す人もなし。
この柱のもとにありつる人々も、心あわたたしげにて、ものおぢしたる気配どもなり。

几帳のきは少し入りたるほどに、袿姿にて立ち給へる人あり。
階より西の二の間の東のそばなれば、紛れどころもなくあらはに見入れらる。
紅梅にやあらむ、濃き薄きすぎすぎにあまた重なりたるけぢめはなやかに、草子のつまのやうに見えて、桜の織物の細長なるべし。
御髪の裾までけざやかに見ゆるは、糸をよりかけたるやうになびきて、裾のふさやかにそがれたる、いとうつくしげにて、七、八寸ばかりぞあまり給へる。
御衣の裾がちに、いと細くささやかにて、姿つき、髪のかかりたまへるそばめ、言ひ知らずあてにらうたげなり。
夕影なれば、さやかならず奥暗き心地するも、いと飽かず口惜し。
鞠に身をなぐる若君達の、花の散るを惜しみもあへぬ気色どもを見るとて、人々、あらはをふともえ見つけぬなるべし。
猫のいたく鳴けば、見返り給へる面持ち、もてなしなど、いとおいらかにて、若くうつくしの人やと、ふと見えたり。

大将、いとかたはらいたけれど、はひ寄らむもなかなかいと軽々しければ、ただ心を得させて、うちしはぶき給へるにぞ、やをら引き入り給ふ。
さるは、我が心地にも、いと飽かぬ心地し給へど、猫の綱許しつれば、心にもあらずうち嘆かる。
ましてさばかり心をしめたる衛門の督は、胸ふとふたがりて、たればかりにかはあらむ、ここらの中にしるき袿姿よりも、人に紛るべくもあらざりつる御気配など、心にかかりておぼゆ。
さらぬ顔にもてなしたれど、まさに目とどめじやと、大将はいとほしくおぼさる。
わりなき心地の慰めに、猫を招き寄せてかき抱きたれば、いとかうばしくて、らうたげにうち鳴くも、なつかしく思ひよそへらるるぞ、すきずきしきや。

【現代語訳】心に残る夕影(「源氏物語-第十三章第六段~第九段-若菜上」紫式部)

たいそう蹴鞠に興じている人々の練達した技量が見えて、蹴鞠の回数が多くなっていくにつれて、身分の高い人も(衣が)乱れて、冠の額(のあたり)が少しゆるんできた。
大将の君(右大将夕霧…源氏の長男)も、ご身分を考えれば、いつもとは違う乱れ方だと思われるが、見た目は人より違って格別に若く美しくて、桜の直衣で少し柔らかくなったものに(なっているのを召して)、指貫の裾の方が少しふくらんで、気持ちほど引き上げていらっしゃった。
軽い身分には見えず、なんとなくさっぱりとして美しい寛いだ姿に、花びらが雪のように降りかかるので、ちょっと見上げて、萎れた枝を少し押し折って、寝殿正面にある階段の中段あたりにお座りになった。
督の君(右衛門督柏木)も続いて、
「花びらが乱れて散るようですね。桜は避けて(吹いて)くれれば良いのに。」
などとおっしゃりながら、女三の宮のお部屋のほうを横目に見ると、いつものように、何かしまりのない様子で、色とりどりの女房たちの着物の袖口がこぼれ出ている御簾の端々や、透影などが、春に奉る幣袋かと思われて見える。

御几帳類をだらしなく片隅に寄せて、人の様子が近くて世間ずれ(男なれ)しているように思われるところに、唐猫でとても小さくてかわいらしいのを、ちょっと大きめの猫が追いかけて、急に御簾の端から走り出すと、女房たちはおびえ騷ぎ立て、ざわざわと身じろぎ(右往左往)し、動き回る様子や、衣の音がやかましく思われる。
猫は、まだよく人に馴れていないのであろうか、綱がたいそう長く付けていたのを、物に引っかけまつわりついたが、逃げようとして引っ張るうちに、御簾の端がたいそうはっきりと中が見えるほど引き開けられたのを、すぐに直す女房もいない。
この柱の側にいた人々も慌てているらしい様子で、物怖じしている様子である。
几帳の側から少し奥まった所に、袿姿で立っていらっしゃる方がいる。
寝殿の中央の階段から西へ二つ目の間の東側の端なので、隠れようもなくすっかり見通すことができる。
紅梅襲であろうか、濃い色薄い色を、次々に、何枚も重ねた色の変化、派手で、草子のはしのように見えて、桜襲の織物の細長なのであろう。
お髪が裾までくっきりと見えるところは、糸をよりかけたようになびいて、裾がふさふさと切り揃えられているのは、とてもかわいい感じで、七、八寸ほど身に余っていらっしゃる。
着物の裾が余って、とても細く小柄で、姿つき、髪のふりかかっていらっしゃる横顔は、何とも言いようがないほど気高くかわいらしげである。
夕日の光なので、はっきり見えず、奥暗い感じがするのも、とても物足りなく残念である。
蹴鞠に夢中になっている若公達の、花の散るのを惜しんでもいられないといった様子を見ようとして、女房たちは、まる見えであるのを少しも見つけることができないのであろう。
猫がひどく鳴くので、振り返りなる顔つき、物腰などは、とてもおっとりとして、若くかわいい方だなあと、少しだけ見えた。

大将は、たいそう苦々しいけれど、はい寄っていくのもかえって軽率なので、ただ気付かせようと、咳払いなさったので、静かにお入りになる。
そうとはいえ、自分ながらも、とても物足りない気持ちがなさったが、猫の綱を放したので、心にもなく少しため息をついた。
まして、あれほど女三の宮のことで心がいっぱいになっていた衛門督は、胸がつまって、他の誰でもない、大勢の中ではっきりと目立つ袿姿からも、他の人と間違いようもなかったご様子など、心に忘れられなく思われる。
何気ない顔を装っていたが、目をつけなかったはずがあろうかと、大将は困った事になったと思わずにはいられない。
たまらない気持ちの慰めに、猫を招き寄せて抱き上げてみると、とてもよい匂いがして、かわいらしく鳴くのが、うつくしく思いなぞらえられるとは、好色めいたことであるよ。

2010/09/13

【現代語訳】雑説(韓愈)

世の中に伯楽(馬を見分ける名人)がいて、それでいて千里を走れる名馬が見出されるのである。
千里の馬というものはいつもいるのだが、伯楽はいつもいるわけではない。
よって名馬がいたとしても(それを見抜ける人がいないために)ただの奴隷人の手によって粗末に扱われ、
ほかの駄馬と一緒に首を並べて死んでいき、千里を走る名馬と誉められることがなく終わってしまうのである。
そもそも千里の走る名馬というものは時には一食に穀一石を食べ尽くしてしまうものである。
しかしながら馬を飼う人はその馬が千里を走る能力があることを知って育てているのではない。
だからこの名馬は千里を走れるとしても、食物の量が不十分なので
力を充分に発揮することができず持って生まれた素質の良さを表に出すことがない。
ではせめて普通の馬と同じように有りたいと望んでもそれも駄目である。
どうしてその馬の千里を走ることを求められようか。
(飼い主は馬を働かせようと)鞭を使う際に名馬に対するような扱いをせず、
育てるのにその才能を存分に発揮させられることもできない。
馬は鳴いて訴えてもその思いを飼い主に伝えることもできない。
飼い主はむちを手にして、名馬に向かって嘆いてこう言う、「この世には優れた馬はいない」と。
ああ、いったい本当に名馬がいないのか、それとも本当に名馬を知らないのではないか。

【書き下し文】雑説(韓愈)

世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。
千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
故に名馬有りと雖ども、祇だ奴隷人の手に辱められ、
槽櫪の間に駢死し、千里を以て称せられざるなり。
馬の千里なる者は、一食に或いは粟一石を尽くす。
馬を食ふ者は其の能く千里なるを知りて食はざるなり。
是の馬千里の能有りて雖ども、食飽かざれば、
力足らず、才の美外に見れず。
且つ常馬と等しからんと欲するも、得べからず。
安くんぞ其の能く千里なるを求めんや。
之に策うつに其の道を以てせず。
之を食ふに其の材を尽くさしむる能はず。
之に鳴けども其の意に通ずる能はず。
策を執りて之に臨みて曰はく、「天下に良馬無し。」と。
鳴呼、其れ真に馬無きか、其れ真に馬を識らざるか。

【白文】雑説(韓愈)

世有伯楽、然後有千里馬。
千里馬常有、而伯楽不常有。
故雖有名馬、辱於奴隷人之手、
駢死於槽櫪之間、不以千里称也。
馬之千里者、一食或尽粟一石。
食馬者、不知其能千里而食也。
是馬也、雖有千里之能、食不飽、
力不足、才美不外見。
且欲与常馬等、不可得。
安求其能千里也。
策之不以其道。
食之不能尽其材。
鳴之而不能通其意。
執策而臨之曰、「天下無馬。」
嗚呼、其真無馬邪、其真不知馬也。

2010/09/12

【書き下し文】慈恵亡国(韓非子)

魏の恵王卜皮に謂ひて曰はく、「子寡人の声聞を聞くこと亦何如。」と。
対へて曰はく、「臣王の慈恵なるを聞けり。」と。
王欣然として喜びて曰はく、「然らば則ち功且に安くにか至らんとする。」と。
対へて曰はく、「王の功は亡ぶるに至らん。」と。
王曰はく、「慈恵は行ひの善なるものなり。
之を行ひて亡ぶとは何ぞや。」と。
卜皮対へて曰はく、「夫れ慈とは忍びざるにして、恵とは与ふるを好むなり。
忍びずんば則ち過ち有るを誅せず。
予ふるを好まば則ち功有るを待たずして賞せん。
過ち有りて罪せず。
功無くして賞を受く。
亡ぶと雖へども亦可ならずや。」と。

【白文】慈恵亡国(韓非子)

魏謂恵王卜皮曰、「子聞寡人之声聞、亦何如焉。」
対曰、「臣聞王之慈恵也。」
王欣然喜曰、「然則功且安至。」
対曰、「王之功至於亡。」
王曰、「慈恵行善也。
行之而亡何也。」
卜皮対曰、「夫慈者不忍、而恵者好与也。
不忍則不誅有過。
好予則不待有功而賞。
有過不罪。
無功受賞。
雖亡不亦可乎。」

【現代語訳】慈恵亡国(韓非子)

魏の恵王がト皮に「あなたの聞くところでは、私の評判はどうですか。」と訊いた。
それに答えて、「臣は王が慈恵であると聞いています。」
王は大喜びして言うには、「そうであるならばその功績はどこに至るのだろうか。」
それに答えて、「王の功績は国を亡ぼすでしょう。」と言った。
王は、「慈恵を行うことは善いことであるのに、これを行って国が亡びるとはどういうことなのか。」と言う。
ト皮は、「そもそも慈とは人の不幸を見過ごすことのできない情け深い心であり、恵とは与えることを好むことです。
情け深い心では、過失があっても罰することができません。
与えることを好むのでは、功績あるのを待たずに賞するでしょう。
過失があっても罪とせず。
功績がなくても賞を授かる。
亡びると言っても可能ではないのでありませんか。」と。

2010/09/11

【白文】曳尾於塗中(荘子)

荘子釣於濮水。
楚王使大夫二人往先焉。
曰、「願以竟内累矣。」
荘子持竿不顧。
曰、「吾聞、楚有神亀、死已三千歳矣。
王巾笥而蔵之廟堂之上。
此亀者、寧其死為留骨而貴乎、寧其生而曳尾於塗中乎。」
二大夫曰、「寧生而曳尾塗中。」
荘子曰、「往矣。吾将曳尾於塗中。」

【書き下し文】曳尾於塗中(荘子)

荘子濮水に釣る。
楚王大夫二人をして往きて先んぜしむ。
曰はく、「願はくは竟内を以て累はさん。」と。
荘子竿を持して顧みず。
曰はく、「吾聞く、楚に神亀有り、死して已に三千歳なり。
王巾笥して之を廟堂の上に蔵すと。
此の亀なる者は、寧ろ其れ死して骨を留めて貴ばるるを為さんか、寧ろ其れ生きて尾を塗中に曳かんか。」と。
二大夫曰はく、「寧ろ生きて尾を塗中に曳かん。」と。
荘子曰はく、「往け。吾将に尾を塗中に曳かんとす。」と。

【現代語訳】曳尾於塗中(荘子)

荘子は濮水で釣りをしていた。
楚王が二人の使いが先に遣わして、王の意向を伝えさせた。
「どうか国内の政治についてあなたの手を煩わせたい。」
荘子は竿を握ったまま、ふり向きもせずいった。
「話に聞けば、楚の国に霊験あらたかな亀がいて、死んでからもう三千年にもなるという。
王はそれを大切に布で包み、箱に収めて、霊廟の御殿の上に保管されている。
この亀の身になれば、かれは殺されて甲羅を留めて大切にされることを望むであろうか、それよりは、いっそ生きながらえて泥の中で尾をひきずることを望むであろうか。」と。
二人の使いは、「それは、やはり生きながらえて泥の中で尾を尾をひきずることを望むでしょう。」と答える。
荘子はこう言った、「お帰りなさい。わたしもまさに尾を泥の中にひきずろうとするのだ。」

2010/09/10

【現代語訳】夢為蝴蝶(荘子)

昔、荘周は夢で蝶になった。
ひらひらと飛び回る様子は胡蝶そのものであった。
自然と楽しくなり、気持ちがのびのびしたことだった。
自分が荘周であることはわからなくなっていた。
にわかに目覚め、きょろきょろしているとなんと自分は荘周であった。
荘周の夢で蝶になったのか、蝶の夢で荘周になったのかはわからない。
しかし、荘周と胡蝶とには、はっきりした区別があるはずである。
こういうのを、「物化(万物の変化の姿)」というのである。

【書き下し文】夢為蝴蝶(荘子)

昔者、荘周夢に胡蝶と為る。
栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩みて志に適へるかな。
周なるを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。
此れを之れ物化と謂ふ。

【白文】夢為蝴蝶(荘子)

昔者、荘周夢為胡蝶。
栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。
不知周也。
俄然覚、則遽遽然周也。
不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。
此之謂物化。

2010/09/09

【現代語訳】二柄(韓非子)

賢明な君主が家臣を思い通りに動かす方法は、二つの柄のみである。
二つの柄とは、刑罰と恩賞である。
何を刑徳と言うのか。
「殺戮(死刑を伴う刑罰を行うこと)を刑と言い、慶賞(褒美を与えること)を徳と言う。」
君主の家臣という者は、死刑にされることを恐れ、褒美を受けることを自分の利益とする。
ゆえに君主は自分でその刑徳を使えば、群臣たちは威光を恐れて褒美を得ようと努めるようになる。
それゆえ世の腹黒い家臣はそうさせないのである。
(悪臣が)憎むべき者にはすぐに上手に刑罰を行う権利を君主から奪い(憎むべき者に)刑罰を与え、(悪臣が)寵愛している者にはすぐに上手に褒美を与える権利を君主から奪って(寵愛している者に)褒美を与える。
今の君主は賞罰の威光と利益を自分で与えることはなく、家臣と相談して賞罰を行えば、その国の人は皆、その家臣を恐れて君主の方を軽く見るようになり、心はその家臣の元に集まり、君主の元から離れるようになる。
これは君主の刑徳を失ったための害である。

そもそも虎が狗を服従させる原因は、(その虎の)爪と牙である。
(虎から)その爪と牙をはずして狗にそれを用いさせると、虎は反って狗に服従するようになる。
君主は、刑徳を用いて家臣を統制しているのである。
今君主は、その刑徳を捨てて家臣に用いさせると、君主は反って家臣に統制されるようになる。

故に斉の田常は、君主に爵位や俸禄をねだり、それを家臣に分け、人民には大きな桝目を用いて、恩恵を施した。
これは簡公が徳を施す権限を失い、田常が常にその権利を用いるようになったということである。
それゆえ簡公はついに殺されたのである。
 
宋の子罕が、君主に話すには、「そもそも褒賞や賜与というものは、民の喜ぶものです。
君主自らそれを与えてあげてください。
刑罰というものは、民の嫌がるものです。
どうかそれは私にお任せください。」と。
こうして君主は刑罰権を失い、子罕がこれを用いるようになった。
それゆえ宋の君主はついに生命を危険にさらされたのである。

(田常は徳の柄を行使しただけで、簡公は殺されこととなり、子罕は刑の柄を行使しただけで、宋の君主は生命を危険にさらされることとなった。)

今の人臣は、刑徳を手に入れ行使しているので、世の君主の危険は、簡公や宋の君主のときよりひどくなっている。
故に臣下に殺されたり、真実を知らされなくなった君主は、刑徳の両方を失い、家臣がこれを行使するようになり、しかも身に危険がないというものは、これまであったためしがない。

【白文】二柄(韓非子)

明主之所導制其臣者、二柄而已矣。
二柄者刑德也。
何謂刑德。
曰、「殺戮之謂刑、慶賞之謂德。」
為人臣者、畏誅罰而利慶賞。
故人主自用其刑德、則群臣畏其威而帰其利矣。
故世之姦臣則不然。
所悪則能得之其主而罪之、所愛則能得之其主而賞之。
今人主非使賞罰之威利出於己也、聴其臣而行其賞罰、則一国之人、皆畏其臣而易其君、帰其臣而去其君矣。
此人主失刑德之患也。

夫虎之所以能服狗者、爪牙也。
使虎釈其爪牙、而使狗用之、則虎反服於狗矣。
人主者、以刑德制臣者也。
今君人者、釈其刑德、而使臣用之、則君反制於臣矣。
故田常上請爵禄而行之群臣、下大斗斛、而施於百姓。
此簡公失德、而田常用之也。
故簡公見弑。
子罕謂宋君曰、「夫慶賞賜予者、民之所喜也。
君自行之。
殺戮刑罰者、民之所悪也。
臣請当之。」
於是宋君失刑、而子罕用之。
故宋君見劫。

(田常徒用德而簡公弑、子罕徒用刑而宋君劫。)

故今之為人臣者、兼刑德而用之、則是世主之危、甚於簡公・宋君也。
故劫殺擁蔽之主、并失刑德、而使臣用之、而不危亡者、則未嘗有也。

【書き下し文】二柄(韓非子)

明王の其の臣を導制する所の者は、 二柄のみ。
二柄とは刑徳なり。
何をか刑徳と謂ふ。
曰はく、「殺戮之を刑と謂ひ、慶賞之を徳と謂ふ。」と。
人臣為る者は、誅罰を畏れて慶賞を利とす。
故に人主自ら其の刑徳を用ゐれば、則ち群臣其の威を畏れて其の利に帰す。
故に世の姦臣は則ち然らず。
悪む所は則ち能く之を其の主に得て之を罪し、愛する所は則ち能く之を其の主に得て之を賞す。
今人主賞罰の威利をして己に出でしむるに非ず、其の臣に聴せて其の賞罰を行はば、則ち一国の人、皆其の臣を畏れて其の君を易り、其の臣に帰して其の君を去る。
此れ人主刑徳を失ふの患なり。

夫れ虎の能く狗を服する所以の者は、爪牙なり。
虎をして其の爪牙を釈てしめて、狗をして之を用ゐしめば、則ち虎反つて狗に服せられん。
人主なる者は、刑徳を以て臣を制する者なり。
今人に君たる者、其の刑徳を釈てて、臣をして之を用ゐしめば、則ち君反つて臣に制せられん。
故に田常は上は爵禄を請ひて、之を群臣に行ひ、下は斗斛を大にして、百姓に施せり。
此れ簡公徳を失ひて、田常之を用ゐるなり。
故に簡公弑せらる。
子罕宋君に謂ひて日はく、「夫れ慶賞賜予は、民の喜ぶ所なり。
君自ら之を行へ。
殺戮刑罰は、民の悪む所なり。
臣請ふ之に当たらん。」と。
是に於いて宋君刑を失ひて、子罕之を用ゐる。
故に宋君劫さる。

故に今の人臣為る者、刑徳を兼ねて之を用ゐれば、則ち是れ世主の危ふきこと、簡公・宋君よりも甚だしきなり。
故に劫殺壅蔽の主は、刑徳を并せ失ひて、臣をして之を用ゐしむるものにして、而も危亡せざる者は、則ち未だ嘗て有らざるなり。

2010/09/08

【現代語訳】心づくしの秋風(「源氏物語」紫式部)

須磨では、ますます物思いの限りを尽くさせる悲しい秋風で、海は少し遠いけれど、行平中納言が、「関吹き越ゆる」と詠んだという浦波が、夜毎に本当にすぐ近くに聞こえて、またとなくしみじみとするのはこのような場所の秋であるのだなあ。

御前にはとても人が少なくて、みんな少し寝入っている時に、(源氏が)ひとり目を覚まして、枕を立てて四方の激しい風をお聞きになると、波がすぐここに来るような気持ちがして、涙が落ちたとも気付かずに、(涙で)枕が浮くほどになってしまった。琴の琴(きんのこと)を少しかき鳴らしなさったが、自分でもとても物寂しく聞こえるので、弾くのをおやめになり、

 恋に悩んで泣く声に聞き間違いそうな浦波(の音)は、私のことを思っている人(紫の上)のいる方角(都)から風が吹くからであろうか。

とおうたいになっていると、人々が目を覚まして、素晴らしいと思われて、こらえきれなくなって、訳もなく起きて座り、みんな鼻をそっとかんでいる。
「本当に(この者達は)どのような思いでいるのだろう。私一人のために、親兄弟や片時も離れるのがつらく、身の程につけて(大切に)思っているのであろう家を離れ、このように悲しい思いをしている」とお思いになると、不憫で、『たいそうこのように思い沈んでいる様子を、心細いと思っているだろう』とお思いになったので、昼は何かと冗談などをおっしゃって気を紛らわし、手持ちぶさたに、色々な紙を継いでは手習いをなさり、珍しい唐の織物などに、様々な絵を気分にまかせてお描きになるが、屏風の表面の絵などは、実に素晴らしく見所のあるものだった。
人々がお話し申し上げた海や山の様子を、はるかに想像していたのが、間近にご覧になると、実に想像も及ばぬ磯のたたずまい、またとないほどお描き集めになる。
「この頃の名人と評判の、千枝や常則などをお呼びになって、彩色させたいものだ。」と、じれったく思っている。
親しみ深く素晴らしいご様子に、世のつらいことも忘れて、お側にお仕え申し上げることをうれしいこととして、四、五人ほどがいつもお仕えしていた。

植え込みの花が色々咲き乱れ、風情のある夕暮れに、海を見渡せる廊にお出でになって、たたずんでいらっしゃるご様子が、不吉なほどにお美しいことは、場所柄もあってさらにこの世のものとはお見えにならない。白い綾織りで柔らかいのに、紫苑色の指貫などをお召になって、濃い縹色の御直衣に、帯をくつろいだ様子で無造作になさったお姿で、「釈迦牟尼仏の弟子」とお名乗りになって、ゆったりと経文をお読みになっている(姿も)、またこの世に類のないほど素晴らしく聞こえる。
沖から舟がいくつも歌い騒ぎながら漕いで行くのも聞こえる。
かすかに、ただ小さい鳥が浮かんでいると見えるのも心細くあるが、雁が列をなして鳴く声が(舟の)楫の音のように聞こえるのを、ぼんやりとご覧になり、涙がこぼれるのをお払いになるお手つきが、黒い数珠に映えていらっしゃって、故郷の女性が恋しい人々の心が、みな慰められるのであった。

【原文】心づくしの秋風(「源氏物語」紫式部)

須磨には、いとど心づくしの秋風に、海は少し遠けれど、行平中納言の、関吹き越ゆると言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものはかかる所の秋なりけり。

御前にいと人少なにて、うち休み渡れるに、独り目を覚まして、枕をそばだてて四方の嵐を聞き給ふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。
琴を少しかき鳴らし給へるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、弾きさし給ひて、

 恋ひわびてなく音にまがふ浦波は思ふ方より風や吹くらむ

とうたひ給へるに、人々おどろきて、めでたうおぼゆるに、忍ばれで、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみ渡す。
げにいかに思ふらむ、我が身一つにより、親兄弟、片時たち離れがたく、ほどにつけつつ思ふらむ家を別れて、かく惑ひ合へるとおぼすに、いみじくて、いとかく思ひ沈むさまを心細しと思ふらむとおぼせば、昼は何くれと戯れ言うちのたまひ紛らはし、つれづれなるままに、いろいろの紙をつぎつつ手習ひをし給ひ、珍しきさまなる唐の綾などにさまざまの絵どもをかきすさび給へる、屏風の面どもなど、いとめでたく見どころあり。
人々の語り聞こえし海山の有様を、はるかにおぼしやりしを、御目に近くては、げに及ばぬ磯のたたずまひ、二なく書き集め給へり。
「このごろの上手すめる千枝・常則などを召して作り絵仕うまつらせばや。」と心もとながり合へり。
なつかしうめでたき御さまに、世のもの思ひ忘れて、近うなれつかうまつるをうれしきことにて、四、五人ばかりぞつと候ひける。

前栽の花いろいろ咲き乱れ、おもしろき夕暮れに、海見やらるる廊に出で給ひてたたずみ給ふ御さまのゆゆしう清らなること、所がらはましてこの世のものと見え給はず。
白き綾のなよよかなる、紫苑色など奉りて、こまやかなる御直衣、帯しどけなくうち乱れ給へる御さまにて、「釈迦牟尼仏弟子。」と名乗りて、ゆるるかに読み給へる、また世に知らず聞こゆ。
沖より舟どものうたひののしりて漕ぎ行くなども聞こゆ。
ほのかに、ただ小さき鳥の浮かべると見やらるるも心細げなるに、雁の連ねて鳴く声楫の音にまがへるを、うちながめ給ひて、涙のこぼるるをかき払ひ給へる御手つき、黒き御数珠に映え給へるは、ふるさとの女恋しき人々の心、みな慰みにけり。

2010/09/07

Cutting Edge 3 - Chapter 10 「ああ、私のクッキーが…」

このことは実は実際の人に起こりました、そして、実際の人は私です。
私は、電車に乗るために行きました。
これは、イギリスのケンブリッジで、1976年4月でした。
私は、電車(の到着)より少し早かったです。
私は、電車の時間を勘違いしていました。
私は、自分がクロスワードをするための新聞と1杯のコーヒーと1箱のクッキーを得るために行きました。
私は行って、テーブルにつきました。
私は、あなたにその場面を描いて欲しいです。
あなたがこれを心の中で非常に明白にすることは、とても重要です。
ここにはテーブル、新聞紙、コーヒーカップ、クッキーの箱があります。
私の反対側に座っている人がいます。
そして、全く普通の様子の、ビジネススーツを着て、書類カバンを持っている人です。
彼は何か怪しいことをしそうではありませんでした。
彼がしたことは、これでした:
彼は、突然身を乗り出し、クッキーの箱を持ち上げ、それを破って開けて、1つ取り出して、それを食べました。

私は、今のこのことは英国人が非常に対処に難しいといった類のものだと言わなければならない。
私たちの背景、しつけ、あるいは教育に、白昼堂々とあなたのクッキーを盗んだ誰かに対処する方法をあなたに教えるものは、何もありません。
あなたは、もしこれがロサンゼルス・サウスセントラル地区であったならば、何が起こるだろうかわかっています。
早急に発砲し、ヘリコプターが来て、CNN(米国のニュース専門局)ですからね・・・。
しかし結局、私はどんな精力旺盛なイギリス人でもすることをしました:
私は、それを無視しました。
そして、私は新聞をじっと見つめて、コーヒーの一口を飲んで、新聞でクロースワードの鍵をつくろうとして、何もすることができなくて、考えました。私は何がしたいのだろう?

結局私は考えました。「私がそれに対してほかにできることは無い。私はただ頑張ってやってみるしかないだろう。」
そして、私はとても一生懸命に、箱がすでに不思議にも開けられたという事実に気がつかないようにしようとしました。
私は、自分でクッキーを取り出しました。
私は思いました、「これで彼に手を打とう。」
しかし、ちょっとたって彼が再びそれをしたので、それはそうしませんでした。
彼は、もう一つのクッキーをとりました。
私は最初それに言及しなかったので、二回目のその話題を持ち出すことはどうもさらにより難しかったです。
「すみませんが、私は気づかずにはいられなかったのですが・・・。」

つまり、それは本当にうまくいかなかった。
私たちは、このように箱全部を使い果たしました。
私が箱全部と言うとき、つまり、およそ8つのクッキーだけがありましたが、それは一生のように感じました。
彼は一つとり、私は一つとり、彼は一つとり、私は一つとりました。
ついに、私たちが最後に到達したとき、彼は立ち上がって、去りました。
さて、私たちは意味ある視線を交わし、そして、彼は去り、そして、私はほっとため息をついて、落ち着きました。

ちょっとたって、電車が来たので、私は残りのコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がり、新聞を拾って、そして、新聞の下に私のクッキーがありました。
私がこの物語について特に好きであることは、イングランドでまったく同じ物語を持った全く普通の人がだいたい最近四半世紀の間ぶらついていたという感覚です。
しかし彼だけは(ジョークの)オチを持ちません。