2010/09/23

【原文】心に残る夕影(「源氏物語-第十三章第六段~第九段-若菜上」紫式部)

いと労ある心ばへども見えて、 数多くなりゆくに、上臈も乱れて、冠の額少しくつろぎたり。
大将の君も、御位のほど思ふこそ例ならぬ乱りがはしさかなとおぼゆれ、見る目は人よりけに若くをかしげにて、桜の直衣のややなえたるに、指貫の裾つ方少しふくみて、気色ばかり引き上げ給へり。
軽々しうも見えず、もの清げなるうちとけ姿に、花の雪のやうに降りかかれば、うち見上げて、しをれたる枝少し押し折りて、御階の中のしなのほどにゐ給ひぬ。
督の君続きて、
「花乱りがはしく散るめりや。桜は避きてこそ。」
などのたまひつつ、宮の御前のかたを後目に見れば、例の、ことにをさまらぬ気配どもして、いろいろこぼれ出でたる御簾のつまづま、透影など、春の手向の幣袋にやとおぼゆ。

御几帳どもしどけなく引きやりつつ、人げ近く世づきてぞ見ゆるに、唐猫のいと小さくをかしげなるを、少し大きなる猫追ひ続きて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人々おびえ騒ぎて、そよそよと身じろきさまよふ気配ども、衣のおとなひ、耳かしかましき心地す。
猫は、まだよく人にもなつかぬにや、綱いと長く付きたりけるを、物に引き掛けまつはれにけるを、逃げむとひこしろふほどに、御簾のそばいとあらはに引き上げられたるを、とみにひき直す人もなし。
この柱のもとにありつる人々も、心あわたたしげにて、ものおぢしたる気配どもなり。

几帳のきは少し入りたるほどに、袿姿にて立ち給へる人あり。
階より西の二の間の東のそばなれば、紛れどころもなくあらはに見入れらる。
紅梅にやあらむ、濃き薄きすぎすぎにあまた重なりたるけぢめはなやかに、草子のつまのやうに見えて、桜の織物の細長なるべし。
御髪の裾までけざやかに見ゆるは、糸をよりかけたるやうになびきて、裾のふさやかにそがれたる、いとうつくしげにて、七、八寸ばかりぞあまり給へる。
御衣の裾がちに、いと細くささやかにて、姿つき、髪のかかりたまへるそばめ、言ひ知らずあてにらうたげなり。
夕影なれば、さやかならず奥暗き心地するも、いと飽かず口惜し。
鞠に身をなぐる若君達の、花の散るを惜しみもあへぬ気色どもを見るとて、人々、あらはをふともえ見つけぬなるべし。
猫のいたく鳴けば、見返り給へる面持ち、もてなしなど、いとおいらかにて、若くうつくしの人やと、ふと見えたり。

大将、いとかたはらいたけれど、はひ寄らむもなかなかいと軽々しければ、ただ心を得させて、うちしはぶき給へるにぞ、やをら引き入り給ふ。
さるは、我が心地にも、いと飽かぬ心地し給へど、猫の綱許しつれば、心にもあらずうち嘆かる。
ましてさばかり心をしめたる衛門の督は、胸ふとふたがりて、たればかりにかはあらむ、ここらの中にしるき袿姿よりも、人に紛るべくもあらざりつる御気配など、心にかかりておぼゆ。
さらぬ顔にもてなしたれど、まさに目とどめじやと、大将はいとほしくおぼさる。
わりなき心地の慰めに、猫を招き寄せてかき抱きたれば、いとかうばしくて、らうたげにうち鳴くも、なつかしく思ひよそへらるるぞ、すきずきしきや。

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