昔の学問をする者には、必ず先生がいた。
先生とは、人間の正しい在り方を伝え、技能を授け、疑問を解決するための人である。
人は生まれながらにして、それについて知らない。
だれが惑わずにおられるのか。いや、おられない。
迷っていながら、先生について学ぼうとしなければ、その迷いはいつまでも解けない。
私より前に生まれて、真理を聞いて理解することが、もちろん私より先ならば、私はその人につき従って先生とするであろう。
私より後に生まれても、真理を聞いて理解することが、また私よりも先であるならば、私はつき従って先生とするであろう。
私は道を先生とするのである。
そもそも、どうしてその人が先に生まれたか、後で生まれたかを考えるのか。いや、考えない。
こういうわけで、身分の高い低いの区別なく、年齢の高い低いの区別なく、道の存在するところが、先生の存在するところなのである。
ああ、先生について教えを受ける正しい在り方が伝わらなくなってから久しくなった。
人が迷いを無くそうとしても難しい。
昔の聖人は、人よりもはるかに抜きんでていた。
それでもなお、先生につき従って質問をした。
今の人々は、聖人よりはるかに劣っている。
それなのに先生について学ぶことを恥としている。
こういうわけで聖人はますます聖人となり、愚人は、ますます愚人となる。
聖人が聖人である理由、愚人が愚人である理由は、みなここに基づいているのであろう。
自分の子を可愛がり、先生を選んで教育させるが、自分のことになると先生について学ぶことを恥とする。
これは間違いである。
あの子供の先生というものは、子供に書物を与えてその書物の読み方を学ばせるものである。
私の言うところの、人の在り方を教え人の疑問を解決する者ではない。
文章の読み方を知らない者と、疑問を解決していない者、ある者は先生について教えを受け、ある者はそうしない。
小さいことは学んでも、大きなことは忘れているようなものである。
私はその人が賢明だとは思わない。
祈祷師と医者・音楽を演奏する人・各種の職人は、お互いに先生について学ぶことを恥じない。
官に仕える人達は師だとか弟子だとか言っている人に対して、群れ集まって笑う。
理由を問うと、「彼と彼とは年がだいたい同じくらいで、修めた学問も同じようなものだ。」
身分が低ければ、恥ずかしいことだと思い、位が高ければ、へつらっているようなものだと言う。
ああ、先生に師事して学ぶことが復活しないのが分かる。
祈祷師と医者・音楽を演奏する人・各種の職人たちを、知識階級の人たちは蔑んでいる。しかし今、知恵は、彼らに及ぶことができない。なんと不思議なことであるよ。
聖人には決まった先生はいない。
萇弘・師襄・老耼・郯子などの連中は、その賢さは孔子には及ばない。
孔子は「三人が行動すれば、必ずその中に自分の先生がいる。」と言った。
だから、弟子は必ずしも先生に及ばないというわけではない。
先生は必ずしも弟子より優れているというわけでもない。
道を聞くのに後先があり、技芸・技能に専門がある、ただそれだけのことである。
李氏の子の蟠は、十七歳である。
古典を好み、六経の本文と注釈を学んで、それらによく精通している。
この時代の風潮にこだわらず、私について学びたいと言ってきた。
私は彼が古人の師に仕える在り方を実行できることを立派だと褒め、「師説」を作って、彼に贈り物とする。
2010/11/05
【書き下し文】師説(「古文真宝」韓愈)
古の学ぶ者は、必ず師有り。
師は道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり。
人は生まれながらにして之を知る者に非ず。
孰か能く惑ひ無からん。
惑ひて師に従はざれば、其の惑ひたるや、終に解けざらん。
吾が前に生まれて、其の道を聞くや、固より吾より先ならば、吾従ひて之を師とせん。
吾が後に生まれて、其の道を聞くや、亦吾より先ならば、吾従ひて之を師とせん。
吾は道を師とするなり。
夫れ庸ぞ其の年の吾より先後生なるを知らんや。
是の故に貴と無く賎と無く、長と無く少と無く、道の存する所は、師の存する所なり。
嗟乎、師道の伝はらざるや、久し。
人の惑ひ無からんと欲するや、難し。
古の聖人は、其の人に出づるや、遠し。
猶ほ且つ師に従ひて問へり。
今の衆人は、其の聖人を去るや、亦遠し。
而るに師に学ぶを 恥づ。
是の故に聖は益々聖にして、愚は益々愚なり。
聖人の聖為る所以、愚人の愚為る所以は、其れ皆此に出づるか。
其の子を愛しては、師を択びて之に教ふるも、其の身に於けるや、則ち師とするを恥づ。
惑へり。
彼の童子の師は、之に書を授けて其の句読を習はしむる者なり。
吾が所謂其の道を伝へ其の惑ひを解く者に非ざるなり。
句読の知らざる、惑ひの解けざる、或るいは師とし、或るいは不せず。
小は学びて大は遺る。
吾未だ其の明なるを見ざるなり。
巫医、楽師・百工の人は、相師とするを恥ぢず。
士大夫の族は、日はく師、日はく弟子と云ふ者には、則ち群聚して之を笑ふ。
之を問へば則ち日はく、「彼と彼とは年相若けり、道相相似たり。」と。
位卑ければ則ち羞づるに足り、官盛んなれば則ち諛ふに近しとす。
嗚呼、師道の復せざること、知るべし。
巫医・楽師・百工の人は、君子之を鄙む。
今其の智は、乃ち反って及ぶ能ばず。
怪しむべきかな。
聖人は常の師無し。
萇弘・師襄・老耼・郯子の徒は、其の賢孔子に及ばず。
孔子日はく、「三人行へば、則ち必ず我が師有り。」と。
故に弟子は必ずしも師に如かずんばあらず。
師は必ずしも弟子より賢ならず。
道を聞くに先後有り、術業に専攻有り、斯くの如きのみ。
李氏の子蟠、年十七。
古文を好み、六芸の経伝、皆之に通習せり。
時に拘はらずして、余に学ばんことを請ふ。
余其の能く古道を行ふを嘉し、師の説を作りて、以て之に貽る。
師は道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり。
人は生まれながらにして之を知る者に非ず。
孰か能く惑ひ無からん。
惑ひて師に従はざれば、其の惑ひたるや、終に解けざらん。
吾が前に生まれて、其の道を聞くや、固より吾より先ならば、吾従ひて之を師とせん。
吾が後に生まれて、其の道を聞くや、亦吾より先ならば、吾従ひて之を師とせん。
吾は道を師とするなり。
夫れ庸ぞ其の年の吾より先後生なるを知らんや。
是の故に貴と無く賎と無く、長と無く少と無く、道の存する所は、師の存する所なり。
嗟乎、師道の伝はらざるや、久し。
人の惑ひ無からんと欲するや、難し。
古の聖人は、其の人に出づるや、遠し。
猶ほ且つ師に従ひて問へり。
今の衆人は、其の聖人を去るや、亦遠し。
而るに師に学ぶを 恥づ。
是の故に聖は益々聖にして、愚は益々愚なり。
聖人の聖為る所以、愚人の愚為る所以は、其れ皆此に出づるか。
其の子を愛しては、師を択びて之に教ふるも、其の身に於けるや、則ち師とするを恥づ。
惑へり。
彼の童子の師は、之に書を授けて其の句読を習はしむる者なり。
吾が所謂其の道を伝へ其の惑ひを解く者に非ざるなり。
句読の知らざる、惑ひの解けざる、或るいは師とし、或るいは不せず。
小は学びて大は遺る。
吾未だ其の明なるを見ざるなり。
巫医、楽師・百工の人は、相師とするを恥ぢず。
士大夫の族は、日はく師、日はく弟子と云ふ者には、則ち群聚して之を笑ふ。
之を問へば則ち日はく、「彼と彼とは年相若けり、道相相似たり。」と。
位卑ければ則ち羞づるに足り、官盛んなれば則ち諛ふに近しとす。
嗚呼、師道の復せざること、知るべし。
巫医・楽師・百工の人は、君子之を鄙む。
今其の智は、乃ち反って及ぶ能ばず。
怪しむべきかな。
聖人は常の師無し。
萇弘・師襄・老耼・郯子の徒は、其の賢孔子に及ばず。
孔子日はく、「三人行へば、則ち必ず我が師有り。」と。
故に弟子は必ずしも師に如かずんばあらず。
師は必ずしも弟子より賢ならず。
道を聞くに先後有り、術業に専攻有り、斯くの如きのみ。
李氏の子蟠、年十七。
古文を好み、六芸の経伝、皆之に通習せり。
時に拘はらずして、余に学ばんことを請ふ。
余其の能く古道を行ふを嘉し、師の説を作りて、以て之に貽る。
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