2015/08/18

【現代語訳】離魂記(陳玄祐)

天授三年(唐の則天武后の時代の年号:690692年)、清河(現在の河北省清河県)の張鎰は、役人としての勤務の関係で衡州に住んでいた。
質朴で物静かな性格で、友人も少なかった。
息子は無く、娘が二人いた。長女は早く亡くなり、末娘の倩娘は、容姿が整っていて美しさが類いまれであった。
鎰の甥にあたる太原の王宙は、幼い頃から頭がよく、容姿も美しかった。
鎰はいつも見どころがあると思い、毎日、「いずれ倩娘を妻にやろう。」と言っていた。
その後二人はそれぞれ成長した。
宙と倩娘は、常に寝ても覚めても思いあっていたが、家の者はそれを知らなかった。
その後天子の後宮の女官を選ぶ者が、倩娘を求め、鎰はこれを許してしまった。
娘はこれを聞いてふさぎ込んだ。
宙もまた深く恨めしく思い、官職へ就くことを口実に、都へ上ることを申し出た。
鎰は止めることが出来ず、とうとう旅費を十分に与えて送り出した。

宙は恨みを胸にひどく嘆き悲しみつつ、別れを告げて舟に乗った。
日暮時、数里離れた山辺の町に着いた。
真夜中になっても、宙は眠れない。
ふと岸上で一人のとても速い足音が聞こえ、ほんの少したって(その足音が)船に着いた。
問うと、何と倩娘である。裸足で歩いてきたのだった。
宙は驚き気も狂わんばかりに喜んで、手を取り合ってどうしてここへ来たのかを聞いた。
倩娘は泣きながら、「あなたがこれほどに私を思ってくる厚い思いは、寝ても忘れたことがありません。今両親がこの気持ちを奪おうとし、またあなたの深い情けが変わらないと知りましたので、死んでもその恩にむくいようと、故郷を捨てて逃げ身を寄せにきました。」
宙は思いも掛けないことに、小躍りしてとても喜んだ。
そして倩娘を船に隠して、夜通し逃げた。
二倍の速さで急ぎ、数ヶ月掛かって蜀(現在の四川省の地域)に着いた。

およそ五年が経って二人の子供が産まれたが、鎰とは音信不通のままであった。
妻がいつも父母を思い出しては涙を流して、「わたしは以前あなたにそむくことが出来ずに、孝の道を捨ててあなたの元へ来ました。
これまで五年、大恩ある両親と遠く隔たっています。
この世でどんな顔をして私一人だけが生きておられましょうか。いや、いられない。」と言った。
宙もかわいそうに思って、「帰ろう。悩むことはない。」と言った。
こうして一緒に衡州へ帰った。
着くと、宙だけが先に鎰の家へ行き、最初に犯した罪を打ち明けてわびた。
鎰は、「倩娘は数年間病気で寝室(婦人の部屋)に寝たままになっている、なぜそんなでたらめを言うのか。」と言った。
宙は、「今舟の中にいます。」と言った。
鎰は大いに驚いて、せかして使いの者に本当かどうかを確かめさせた。
確かに船の中に倩娘がいる。顔色もにこやかで気持ちよさそうで、使者に、「お父様はお元気ですか。」と尋ねる。

使いの者も不思議に思って、飛んで帰って鎰に報告した。
部屋の中の女(もう一人の倩娘)がこれを聞くと、喜んで起きあがり、化粧を整え着物を換え、笑みを浮かべて物も言わない。
出ていって互いに迎え合うと、二人はぴったりと合わさって一つの体になった。その着物まで皆重なった。

その家では事がまともでないので、これを秘密にしておいた。
ただ親戚の中にこれを知っている者があった。
その後四十年の間に、宙夫妻は共に亡くなった。
二人の息子もそろって役人の試験に合格し、県丞(民政担当)と県尉(軍事・警察担当)になった。

私は若い頃にしばしばこの話を聞いたが、話に色々異動があるので、おそらく作り話だと思っていた。
(しかし、)大暦の末に、莱蕪県(現在の山東省莱蕪市)の県令である張仲規に会った。
それで、事の一部始終を語ってくれた。
鎰は仲規の父方のおじに当たるので、漏れがなく詳しく知っていたのである。
だからここに記しておく。

【書き下し文】離魂記(陳玄祐)

天授三年、清河の張鎰、官に因りて衡州に家す。
性簡静にして、知友寡なし。子無く、女二人有り。
其の長なるものは早く亡じ、幼女の倩娘、端妍絶倫なり。鎰の外甥太原の王宙、幼くして聡悟、美しき容範なり。鎰常に器重し、毎に曰はく、「他時当に倩娘を以て之に妻すべし。」と。宙と倩娘とは、常に私かに寤寐に感想するも、家人其の状を知る莫し。後賓寮の選者有りて、之を求め、鎰焉を許せり。女聞きて鬱抑す。宙も亦深く恚恨し、託するに当調を以てし京に赴かんと請ふ。之を止むれども可かず、遂に厚く之を遣る。


後各各長成す。

宙陰かに恨みて悲慟し、訣別して船に上る。
日暮れ、山郭に至るまで数里なり。
夜方に半ばにして、宙寐られず。
忽ち聞く、岸上に一人有り、行声甚だ速やかなり。
須臾にして船に至る。之に問へば、乃ち倩娘の徒行跣足して至れるなり。
宙驚喜して狂を発し、手を執りて其の従りて来るを問ふ。
泣きて曰はく、「君が厚意此くの如く、寝食に相感ず。
今将に我が此の志を奪はんとするも、又君が深情の易はらざるを知り、将に身を殺して奉報せんとするを思ふ。
是を以て亡命して来奔す。」と。
宙意の望む所に非ず、欣躍特に甚だし。遂に倩娘を船に匿し、連夜遁れ去り、道を倍し行を兼ね、数月にして蜀に至る。

凡そ五年、両子を生むにも、鎰と信を絶つ。
其の妻常に父母を思ひ、涕泣して言ひて曰はく、「吾曩の日、相負くこと能はず、大義を棄てて君に来奔せり。
今に向いて五年、恩慈間阻す。覆載の下、胡の顔ありて独り存せんや。」と。
宙之を哀れみて曰はく、「将に帰らんとす。苦しむこと無なかれ。」と。
遂に倶に衡州に帰る。既に至るや、宙独り身ら先づ鎰の家に至り、其の事を首謝す。
鎰曰はく、「倩娘は病みて閨中に在ること数年なるに、何ぞ其れ詭説するなり。」と。
宙曰はく、「見に舟中に在り。」と。
鎰大いに驚き、促して人をして之を験せしむ。
果たして倩娘の船中に在るを見る。顔色怡暢、使者に訊ねて曰はく、「大人安きや否や。」と。

家人之を異しみ、疾走して鎰に報ず。室中の女聞き、喜びて起ち、粧を飾り衣を更め、笑ひて語らず。
出でて与に相迎へ、翕然として合して一体と為る。其の衣裳も皆重なる。

其の家事の正ならざるを以て之を秘す。惟だ親戚の間に、潜かに之を知る者有り。
後四十年の間に、夫妻皆喪ぶ。
二男並びに孝廉に擢第せられ、丞・尉に至る。

玄祐少きとき常に此の説を聞くも、異同多く、或いは其の虚なるを謂ふ。
大暦の末、莱蕪の県令張仲規に遇ふ。
因りて備に其の本末を述ぶ。
鎰は則ち仲規の堂叔にして、説くこと極めて備悉なり。故に之を記す。

【白文】離魂記(陳玄祐)

【白文】
天授三年、清河張鎰、因官家于衡州。性簡静寡知友。
無子有女二人。其長早亡、幼女倩娘、端妍絶倫。
鎰外甥太原王宙、幼聡悟、美容範。
鎰常器重毎曰、「他時当以倩娘妻之。」
後各長成。宙与倩娘、常私感想於寤寐、家人莫知其状。
後有賓寮之選者、求之、鎰許焉。
女聞而鬱抑。宙亦深恚恨、託以当調、請赴京。
止之不可。遂厚遣之。
宙陰恨悲慟、訣別上船。
日暮、至山郭数里。夜方半、宙不寐。
忽聞、岸上有一人、行声甚速。
須臾至船。問之、乃倩娘徒行跣足而至。
宙驚喜発狂、執手問其従来。
泣曰、「君厚意如此、寝食相感。
今将奪我此志、又知君深情不易、思将殺身奉報。是以亡命来奔。」
宙非意所望、欣躍特甚。
遂匿倩娘于船、連夜遁去、倍道兼行、数月至蜀。
凡五年、生両子、与鎰絶信。
其妻常思父母、涕泣言曰、
「吾曩日、不能相負、棄大義而来奔君。
向今五年、恩慈間阻。覆載之下、胡顔独存也。」
宙哀之曰、「将帰。無苦。」遂倶帰衡州。
既至、宙独身先至鎰家、首謝其事。
鎰曰、「倩娘病在閨中数年、何其詭説也。」
宙曰、「見在舟中。」鎰大驚、促使人験之。
果見倩娘在船中。顔色怡暢、訊使者曰、「大人安否。」
家人異之、疾走報鎰。室中女聞、喜而起、飾粧更衣、笑而不語。
出与相迎、翕然而合為一体。其衣裳皆重。
其家以事不正秘之。惟親戚間、有潜知之者。
後四十年間、夫妻皆喪。二男並孝廉擢第、至丞・尉。
玄祐少常聞此説、而多異同、或謂其虚。
大暦末、遇莱蕪県令張仲規。因備述其本末。
鎰則仲規堂叔、而説極備悉。故記之。

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2010/11/05

【現代語訳】師説(「古文真宝」韓愈)

昔の学問をする者には、必ず先生がいた。
先生とは、人間の正しい在り方を伝え、技能を授け、疑問を解決するための人である。
人は生まれながらにして、それについて知らない。
だれが惑わずにおられるのか。いや、おられない。
迷っていながら、先生について学ぼうとしなければ、その迷いはいつまでも解けない。
私より前に生まれて、真理を聞いて理解することが、もちろん私より先ならば、私はその人につき従って先生とするであろう。
私より後に生まれても、真理を聞いて理解することが、また私よりも先であるならば、私はつき従って先生とするであろう。
私は道を先生とするのである。
そもそも、どうしてその人が先に生まれたか、後で生まれたかを考えるのか。いや、考えない。
こういうわけで、身分の高い低いの区別なく、年齢の高い低いの区別なく、道の存在するところが、先生の存在するところなのである。

ああ、先生について教えを受ける正しい在り方が伝わらなくなってから久しくなった。
人が迷いを無くそうとしても難しい。
昔の聖人は、人よりもはるかに抜きんでていた。
それでもなお、先生につき従って質問をした。
今の人々は、聖人よりはるかに劣っている。
それなのに先生について学ぶことを恥としている。
こういうわけで聖人はますます聖人となり、愚人は、ますます愚人となる。
聖人が聖人である理由、愚人が愚人である理由は、みなここに基づいているのであろう。

自分の子を可愛がり、先生を選んで教育させるが、自分のことになると先生について学ぶことを恥とする。
これは間違いである。
あの子供の先生というものは、子供に書物を与えてその書物の読み方を学ばせるものである。
私の言うところの、人の在り方を教え人の疑問を解決する者ではない。
文章の読み方を知らない者と、疑問を解決していない者、ある者は先生について教えを受け、ある者はそうしない。
小さいことは学んでも、大きなことは忘れているようなものである。
私はその人が賢明だとは思わない。

祈祷師と医者・音楽を演奏する人・各種の職人は、お互いに先生について学ぶことを恥じない。
官に仕える人達は師だとか弟子だとか言っている人に対して、群れ集まって笑う。
理由を問うと、「彼と彼とは年がだいたい同じくらいで、修めた学問も同じようなものだ。」
身分が低ければ、恥ずかしいことだと思い、位が高ければ、へつらっているようなものだと言う。
ああ、先生に師事して学ぶことが復活しないのが分かる。
祈祷師と医者・音楽を演奏する人・各種の職人たちを、知識階級の人たちは蔑んでいる。しかし今、知恵は、彼らに及ぶことができない。なんと不思議なことであるよ。

聖人には決まった先生はいない。
萇弘・師襄・老耼・郯子などの連中は、その賢さは孔子には及ばない。
孔子は「三人が行動すれば、必ずその中に自分の先生がいる。」と言った。
だから、弟子は必ずしも先生に及ばないというわけではない。
先生は必ずしも弟子より優れているというわけでもない。
道を聞くのに後先があり、技芸・技能に専門がある、ただそれだけのことである。

李氏の子の蟠は、十七歳である。
古典を好み、六経の本文と注釈を学んで、それらによく精通している。
この時代の風潮にこだわらず、私について学びたいと言ってきた。
私は彼が古人の師に仕える在り方を実行できることを立派だと褒め、「師説」を作って、彼に贈り物とする。