2010/10/25

【白文】師説(韓愈「古文真宝」)

古之学者、必有師。
師者所以伝道授業解惑也。
人非生而知之者。
孰能無惑。
惑而不従師、其為惑也、終不解矣。
生乎吾前、其聞道也、固先乎吾、吾従而師之。
生乎吾後、其聞道也、亦先乎吾、吾従而師之。
吾師道也。
夫庸知其年之先後生於吾乎。
是故無貴無賎、無長無少、道之所存、師之所存也。

嗟乎、師道之不伝也、久矣。
欲人之無惑也、難矣。
古之聖人、其出人也、遠矣。
猶且従師而問焉。
今之衆人、其去聖人也、亦遠矣。
而恥学於師。
是故聖益聖、愚益愚。
聖人之所以為聖、愚人之所以為愚、其皆出於此乎。

愛其子、択師而教之、於其身也、則恥師焉。
惑矣。
彼童子之師、授之書而習其句読者也。
非吾所謂伝其道解其惑者也。
句読之不知、惑之不解、或師焉、或不焉。
小学而大遺。
吾未見其明也。

巫医・楽師・百工之人、不恥相師。
士大夫之族、曰師、曰弟子云者、則群聚而笑之。
問之則曰、「彼与彼年相若也、道相似也。」
位卑則足羞、官盛則近諛。
嗚呼、師道之不復、可知矣。
巫医・楽師・百工之人、君子鄙之。
今其智、乃反不能及。
可怪也歟。

聖人無常師。
萇弘・師襄・老耼・郯子之徒、其賢不及孔子。
孔子曰、「三人行、則必有我師。」
故弟子不必不如師。
師不必賢於弟子。
聞道有先後、術業有専攻、如斯而已。

李氏子蟠、年十七。
好古文、六芸経伝、皆通習之。
不拘於時、請学於余。
余嘉其能行古道、作師説、以貽之。

2010/10/14

【現代語訳】去来抄(向井去来「此木戸や」)

此木戸や錠のさされて冬の月 其角
(酔っ払い夜更けて城門まで来るとすでに錠が下ろされていて通れない。空を見上げると、澄んだ冬の月が深々と辺りを照らしている。)

「猿蓑」に入れる句を撰んでいたときのこと、(江戸の其角が)この句を(師の芭蕉へ)書き送り、下の句を「冬の月」か「霜の月」にするか、悩んでおりますという旨を、(芭蕉へ)申し上げた。
ところが、初め(の句)は(「此」と「木」の)文字が詰まっていて、「柴戸」と読めた。
芭蕉は、「其角(ほどの者)が『冬』か『霜』かで悩むような(すぐれた)句ではない。」とおっしゃって、「冬の月」として「猿蓑」に入れた。

その後、大津(=滋賀県大津市)からの芭蕉の手紙に、「『柴戸』ではなく、『此木戸』である。
このようなすぐれた作品は一句とはいえ大切であるので、たとえ版木を彫り終えたとしても、急いで改めなさい。」とあった。

凡兆は、「『柴戸』でも『此木戸』でもそれといった優劣はない。」と言う。
(対して)去来は、「この月を柴の戸にあわして見るならば、並の情景である。
(しかし)この月を城門にうつして見ますならば、その情景はしみじみと感慨深くすばらしくて、(何とも)言いようのない。
其角が、『冬』か『霜』かで悩んだのも当然である。」と言った。

***
柴で出来た垣根は質素な隠者の住まいを代表する。その垣根を照らす月。
その情景は風情あるものだが、あまりにもありふれている。
また、「冬の月」は深々と辺りを照らすのに対し、「霜の月」は辺りをきらきらと輝やかせる。
隠者のわび住まいに似つかわしいのはどちらか。無論、冬の月である。

当時は木板印刷であったが、版木を彫り終えてしまったとしても、改めよという芭蕉の言動から、俳諧・芸術への厳しい姿勢を感じられる。

【原文】去来抄(向井去来「此木戸や」)

此木戸や錠のさされて冬の月 其角

「猿蓑」撰のとき、この句を書き送り、下を、冬の月、霜の月、置きわづひ侍るよし、聞こゆ。
しかるに、初めは文字つまりて、柴戸と読めたり。
先師曰はく、「角が、冬・霜にわづらふべき句にもあらず。」とて、冬の月と入集せり。

その後、大津より先師の文に、「柴戸にあらず、此木戸なり。
かかる秀逸は一句も大切なれば、たとへ出板に及ぶとも、急ぎ改むべし。」となり。

凡兆曰はく、「柴戸・此木戸、させる勝劣なし。」
去来曰はく、「この月を柴の戸に寄せて見れば、尋常の気色なり。
これを城門にうつして見侍れば、その風情あはれにものすごく、言ふばかりなし。
角が、冬・霜にわづひけるもことわりなり。」

2010/10/12

【現代語訳】関白の宣旨(「大鏡」太政大臣道長)

女院(藤原詮子-道長の姉)は、入道殿(道長)を特別扱い申し上げなさって、とても(大切に)思い申し上げなさっていたので、帥殿(伊周=定子と兄弟関係)はよそよそしく振舞っておられた。
帝(一条天皇)は、定子を心から寵愛なさるその縁で、帥殿は朝晩天皇のおそばに仕えなさって、(帥殿は)入道殿のことは申すまでもなく、女院をも良からぬように、何かにつけて申し上げなさるのを、女院は自然とお気づきになさったのだろうか、たいそう不本意なことにお思いになったのは、当然のことだなぁ。

入道殿が摂関となって政治をお執りになることを、帝はたいそう渋りなさった。
皇后宮(定子)は、父大臣(道隆)がいらっしゃらず(亡くなられて)、世間への皇后宮の境遇がお変わりになってしまうことを、(帝は)とても気の毒にお思いになって、粟田殿(道兼)にも、すぐに宣旨は下しなさっただろうか、いや下しなさらなかった。(やは:反語)
そうではあるけれど、女院は道理の通りに兄弟の順に関白に任ずることをお考えになり、また、帥殿を良くなく思い申し上げなさったので、(帝は)入道殿が関白になることを、たいそう渋りなさったけれど、
「どうしてこのようにお思いになって、おっしゃるのですか。
入道殿を超えて帥殿が先に内大臣になったことさえ、たいそう気の毒でした。
父大臣が強引にしましたことなので、(帝も)断りなさらなくなってしまったのです。
粟田の大臣にはなさって(=関白の宣旨をお与えになり)、入道殿にはございません(=お与えにならない)としたら、気の毒よりも、あなたのためにたいそう不都合なことで、世間の人もことさらに言うでしょう。」
などと、(女院が)熱心に申し上げなさったので、(帝は)わずらわしくお思いになったのだろうか、その後には女院の所へお渡りにはならなかった。

それで、(女院は)上の御局(=清涼殿にある后妃の部屋)に上りなさって、(帝に)「こちらへ。」とは申し上げなさらず、自分が夜の御殿(清涼殿の天皇の寝所)にお入りなって、泣く泣く(道長を関白にと)申し上げなさる。
その日は、入道殿は上の御局にお控えなさる。
(女院が)たいそう長い時間お出にならないので、(入道殿は)はらはらしなさった頃に、しばらくして、(女院が)戸を押し開けて出なさった。
その御顔は赤く、(涙で)濡れてつやつやと光りなさるものの、お口はこころよく微笑みなさって、「ああ、やっと宣旨が下った。」と申し上げなさった。
些細なことでさえ、現世の縁ではなく、前世の宿縁で決まるということなので、ましてや、これほどのご様子は、女院が、どうこうお考えになることによって決まるはずのものでもないが、(入道殿としては)どうして女院をおろそかに思い申し上げなさるだろうか、いや思い申し上げになさらない。
その中でも、道理を過ぎるほど恩に報い申し上げ、お仕え申し上げなさった。
女院を鳥辺野に葬送するときに(女院の骨を首に)掛けることまでもなさっていたということよ。

【原文】関白の宣旨(「大鏡」太政大臣道長)

女院は、入道殿を取り分き奉らせ給ひて、いみじう思ひ申させ給へりしかば、帥殿はうとうとしくもてなさせ給へりけり。
帝、皇后宮をねんごろに時めかせ給ふゆかりに、師殿は明け暮れ御前に候はせ給ひて、入道殿をばさらにも申さず、女院をもよからず、事に触れて申させ給ふを、おのづから心得やせさせ給ひけむ、いと本意なきことにおぼしめしける、ことわりなりな。

入道殿の世を知らせ給はむことを、帝いみじうしぶらせ給ひけり。
皇后宮、父大臣おはしまさで、世の中をひき変はらせ給はむことを、いと心苦しうおぼしめして、粟田殿にも、とみにや宣旨下させ給ひし。
されど、女院の、道理のままの御ことをおぼしめし、また、帥殿をばよからず思ひ聞こえさせ給うければ、入道殿の御ことを、いみじうしぶらせ給ひけれど、
「いかでかくはおぼしめし、仰せらるるそ。
大臣越えられたることだに、いといとほしく侍りしに、父大臣のあながちにし侍りしことなれば、いなびさせ給はずなりにしにこそ侍れ。
粟田の大臣にはせさせ給ひて、これにしも侍らざらむは、いとほしさよりも、御ためなむ、いと便なく、世の人も言ひなし侍らむ。」
など、いみじう奏させ給ひければ、むつかしうやおぼしめしけむ、後には渡らせ給はざりけり。

されば、上の御局に上らせ給ひて、「こなたへ。」とは申させ給はで、我、夜の御殿に入らせ給ひて、泣く泣く申させ給ふ。
その日は、入道殿は上の御局に候はせ給ふ。
いと久しく出でさせ給はねば、御胸つぶれさせ給ひけるほどに、とばかりありて、戸を押し開けて出でさせ給ひける。
御顔は、赤みぬれつやめかせ給ひながら、御口はこころよく笑ませ給ひて、「あはや、宣旨下りぬ。」とこそ申させ給ひけれ。
いささかのことだに、この世ならず侍るなれば、いはむや、かばかりの御有様は、人の、ともかくもおぼしおかむによらせ給ふべきにもあらねども、いかでかは院をおろかに思ひ申させ給はまし。
その中にも、道理すぎてこそは報じ奉りつかうまつらせ給ひしか。
御骨をさへこそはかけさせ給へりしか。