2010/09/08

【原文】心づくしの秋風(「源氏物語」紫式部)

須磨には、いとど心づくしの秋風に、海は少し遠けれど、行平中納言の、関吹き越ゆると言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものはかかる所の秋なりけり。

御前にいと人少なにて、うち休み渡れるに、独り目を覚まして、枕をそばだてて四方の嵐を聞き給ふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。
琴を少しかき鳴らし給へるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、弾きさし給ひて、

 恋ひわびてなく音にまがふ浦波は思ふ方より風や吹くらむ

とうたひ給へるに、人々おどろきて、めでたうおぼゆるに、忍ばれで、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみ渡す。
げにいかに思ふらむ、我が身一つにより、親兄弟、片時たち離れがたく、ほどにつけつつ思ふらむ家を別れて、かく惑ひ合へるとおぼすに、いみじくて、いとかく思ひ沈むさまを心細しと思ふらむとおぼせば、昼は何くれと戯れ言うちのたまひ紛らはし、つれづれなるままに、いろいろの紙をつぎつつ手習ひをし給ひ、珍しきさまなる唐の綾などにさまざまの絵どもをかきすさび給へる、屏風の面どもなど、いとめでたく見どころあり。
人々の語り聞こえし海山の有様を、はるかにおぼしやりしを、御目に近くては、げに及ばぬ磯のたたずまひ、二なく書き集め給へり。
「このごろの上手すめる千枝・常則などを召して作り絵仕うまつらせばや。」と心もとながり合へり。
なつかしうめでたき御さまに、世のもの思ひ忘れて、近うなれつかうまつるをうれしきことにて、四、五人ばかりぞつと候ひける。

前栽の花いろいろ咲き乱れ、おもしろき夕暮れに、海見やらるる廊に出で給ひてたたずみ給ふ御さまのゆゆしう清らなること、所がらはましてこの世のものと見え給はず。
白き綾のなよよかなる、紫苑色など奉りて、こまやかなる御直衣、帯しどけなくうち乱れ給へる御さまにて、「釈迦牟尼仏弟子。」と名乗りて、ゆるるかに読み給へる、また世に知らず聞こゆ。
沖より舟どものうたひののしりて漕ぎ行くなども聞こゆ。
ほのかに、ただ小さき鳥の浮かべると見やらるるも心細げなるに、雁の連ねて鳴く声楫の音にまがへるを、うちながめ給ひて、涙のこぼるるをかき払ひ給へる御手つき、黒き御数珠に映え給へるは、ふるさとの女恋しき人々の心、みな慰みにけり。

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