2010/09/09

【現代語訳】二柄(韓非子)

賢明な君主が家臣を思い通りに動かす方法は、二つの柄のみである。
二つの柄とは、刑罰と恩賞である。
何を刑徳と言うのか。
「殺戮(死刑を伴う刑罰を行うこと)を刑と言い、慶賞(褒美を与えること)を徳と言う。」
君主の家臣という者は、死刑にされることを恐れ、褒美を受けることを自分の利益とする。
ゆえに君主は自分でその刑徳を使えば、群臣たちは威光を恐れて褒美を得ようと努めるようになる。
それゆえ世の腹黒い家臣はそうさせないのである。
(悪臣が)憎むべき者にはすぐに上手に刑罰を行う権利を君主から奪い(憎むべき者に)刑罰を与え、(悪臣が)寵愛している者にはすぐに上手に褒美を与える権利を君主から奪って(寵愛している者に)褒美を与える。
今の君主は賞罰の威光と利益を自分で与えることはなく、家臣と相談して賞罰を行えば、その国の人は皆、その家臣を恐れて君主の方を軽く見るようになり、心はその家臣の元に集まり、君主の元から離れるようになる。
これは君主の刑徳を失ったための害である。

そもそも虎が狗を服従させる原因は、(その虎の)爪と牙である。
(虎から)その爪と牙をはずして狗にそれを用いさせると、虎は反って狗に服従するようになる。
君主は、刑徳を用いて家臣を統制しているのである。
今君主は、その刑徳を捨てて家臣に用いさせると、君主は反って家臣に統制されるようになる。

故に斉の田常は、君主に爵位や俸禄をねだり、それを家臣に分け、人民には大きな桝目を用いて、恩恵を施した。
これは簡公が徳を施す権限を失い、田常が常にその権利を用いるようになったということである。
それゆえ簡公はついに殺されたのである。
 
宋の子罕が、君主に話すには、「そもそも褒賞や賜与というものは、民の喜ぶものです。
君主自らそれを与えてあげてください。
刑罰というものは、民の嫌がるものです。
どうかそれは私にお任せください。」と。
こうして君主は刑罰権を失い、子罕がこれを用いるようになった。
それゆえ宋の君主はついに生命を危険にさらされたのである。

(田常は徳の柄を行使しただけで、簡公は殺されこととなり、子罕は刑の柄を行使しただけで、宋の君主は生命を危険にさらされることとなった。)

今の人臣は、刑徳を手に入れ行使しているので、世の君主の危険は、簡公や宋の君主のときよりひどくなっている。
故に臣下に殺されたり、真実を知らされなくなった君主は、刑徳の両方を失い、家臣がこれを行使するようになり、しかも身に危険がないというものは、これまであったためしがない。

1 件のコメント:

  1. とても魅力的な記事でした!!
    また遊びに来ます!!
    ありがとうございます。。

    返信削除